日の入り文書【夕闇編】
- SAPO(部門責任者)
- 2024年11月7日
- 読了時間: 10分
※この文章は、あらすじや始まりの場面の文章に対して、ChatGPTが書いた続きの物語です。

ある日の時間
・午前零時
今は午前零時である。健康的な人はもう寝静まった時間である。そんな時間に私は何をやっているかというとレポート。所謂学校からの宿題である。
なお、その期限は今日の朝八時五十分である。何故こんなことになったか簡単に話すと、この休日を遊んで過ごしていたからである。と言えれば良かったが、そう簡単な問題では無かった。
昨日は楽親戚の人が来ており楽しい時間ではあったが、その間にレポートを書ければこんなことにはならなかったのだ。しかし、親戚の人に来て貰っている手前行かないという選択肢は私には無かった。
・午前四時
さてここまで書いてきて、今午前四時を回った。終わらない、ああ終わらない。でもやらないと終わらない。ここで諦めてしまおうかとも考えたが、諦めたらその結果が自分に返ってくるだけだ。
と自分を奮い立たせているが、もうそろそろ睡魔が限界まで達しそうだ。現在レポート進捗三十パーセント。もう諦めた方が良いのか。そう思っていたら、ふと、「あと少し頑張れば終わるかもしれない」と、どこからか希望のようなものが湧いてきた。
目はしょぼしょぼ、頭はぼんやりしているが、ここで投げ出すわけにはいかない。そうだ、もう少し粘ってみよう。少しだけでも前に進めば、きっと何かが見えるはずだ。
・午前六時
時計の針が六時を指したとき、もう絶望と諦観が私を包んでいた。「はじめ」の項目から、ようやく「原理」へと進み、いくつかの文を作り上げてはいるが、先はまだまだ長い。
頭の中では、「実験方法」「実験結果」「検討事項」「まとめ」という言葉が浮かんでは消え、書いても、書いてもゴールが見えてこない。
・午前七時半
ついに出発の時間が来てしまった。あと少し、残るは「まとめ」部分だけ。おそらく、あと10分ほどあれば完成できるはずだ。しかし、時間は待ってくれない。
ここまできたのだから、学校に着いたら続きを書いて何とか間に合わせるしかない。そう決意して、急いで家を飛び出した。
・午前八時半
ようやく学校に到着すると、すぐさまノートを取り出し、最後の「まとめ」を書き上げた。指が震える中での一気書きだったが、なんとか間に合った。提出箱にレポートを入れた瞬間、重荷がスッと軽くなった気がしたが、同時にどっと疲れも押し寄せてくる。今日一日はまさに命を削ったようなものだった。
暗い一日
・第一節
私は今日とても暗い気持ちである。何があったかそれを説明すると、こうだ。昨日、私の好きな本のシリーズが終わってしまったのだ。あの物語は、とてもスタンダードなノベルであり、ある少年が親に捨てられ、優しいおじいさんに拾われ、村の守り人となるストーリーだ。
その物語を読むことが、私にとって唯一の逃げ道だったのかもしれない。学校や家での憂鬱な時間から、少しでも離れるために、ページをめくることが毎日の癒しだった。だけど、そのシリーズが終わってしまった今、心の拠り所を失ったように感じる。
学校では、まるで自分が透明人間になったかのようだ。周りの人たちはそれぞれに楽しそうに話しているが、誰も私に声をかけようとしない。クラスメイトたちの笑い声やささやきが遠くから聞こえるたびに、自分がそこに居ないような気持ちになる。たとえ目の前にいても、誰も気に留めてくれない。
先生が質問しても、私が手を挙げても、なぜか当てられない。私の存在が認識されていないように感じる。だから、私も次第に周囲に無関心になっていった。
毎日、教室にいる時間が耐え難い。特に昼休みは、私にとって最も辛い時間だ。友達と楽しそうに食事をしているグループを横目で見ながら、私はひとりで机に向かい、無言で弁当を広げる。声をかけてもらいたい気持ちはあるが、声をかけられたところでどう振る舞えばいいのかわからないし、何を話していいのかもわからない。
それに、無理に話しかけて居心地の悪い沈黙が続くくらいなら、最初からひとりでいるほうが気楽だとさえ思っている。
そんなふうに学校での時間が憂鬱でしかない一方で、家に帰っても心休まることはない。家に戻ると、待っているのは、どこか冷たい視線と批判的な言葉ばかりだ。父も母も、なぜか私に対して期待が大きいようで、ちょっとしたミスや成績が下がるとすぐに叱られる。
「どうしてこうもだらしないのか」とか、「勉強ができないと将来苦労するだけだ」とか、いつも同じような言葉を投げつけられる。そのたびに、胸の中で何かが崩れていくような気持ちになる。
最近は、親の言葉が耳に入るたびに反発したくなる自分がいる。でも、それを口に出せばもっと怒られるのがわかっているから、結局何も言えずにただ黙っている。だけど、その沈黙が余計に親を苛立たせるようで、いつも最悪な空気に包まれてしまう。
両親が求める「理想の子供」像と、実際の自分との間にあるギャップがあまりにも大きすぎて、その溝をどう埋めればいいのかわからない。だから私は、いつも自分が期待外れで、何をしても受け入れられない存在なんだと感じてしまう。
唯一の安らぎの場だったあの物語の中でさえも、私は今の自分と重ねてしまっていた。物語の主人公も、親から見捨てられて、どこか孤独を抱えながらも、優しいおじいさんと出会って新しい居場所を見つける。そんな彼の成長が、私にはどこか希望のように思えたのだ。
自分も、いつか本当の居場所を見つけられるかもしれないと、そう信じたいと思っていた。でも、その物語が終わった今、その希望もどこか霞んでしまったように感じる。現実には、誰も手を差し伸べてくれるおじいさんなんていないし、私が村の守り人のような存在になることなんてありえない。
そんな風に考えてしまう自分が情けないと思うこともある。でも、どうしてもそう思ってしまうのだ。現実の私には、ただの「自分で何とかしなさい」という親の言葉があるだけで、それがどれだけ重くて無情な言葉なのか、きっと誰もわかってくれない。
・第二節
自分でもわかっていることだが、どうしても人とうまくやっていけないのは、私自身のせいなのかもしれない。周りが私を避けるのも、自分が彼らから疎外感を抱くのも、結局は私がうまく振る舞えないからだろう。
もっと社交的で、物事を楽観的に見られる人間なら、今のような孤独な状況にはならなかったはずだ。自分の無力さや情けなさに対する思いは、毎日頭の中を巡っていて、時々どうしようもないほど自分が嫌になる。
たとえば、クラスの中で何かイベントがあるとき、みんなが楽しそうに相談しているのを見ると、自分もその輪に入りたい気持ちと、どうしても入れない気持ちがせめぎ合う。私が少し勇気を出して声をかければ、もしかしたら仲間に入れてくれるのかもしれない。
でも、実際には自分から一言も声をかけることができない。それどころか、話しかけようとした瞬間、何を話したらいいのか頭が真っ白になってしまうこともある。
どんなに「うまく話さなければならない」と意識すればするほど、緊張してしまって言葉が出なくなるのだ。そして、そうした機会を逃すたびに、「また自分が一人でいる原因を作ってしまったんだ」と自責の念にかられる。
他の人たちは、なぜあんなに自然に振る舞えるのだろう?どうして皆、初めて会う人ともすぐに仲良くなれるのだろう?私が抱えるような不安や緊張がないのだろうか?どんなに考えても答えは出ないが、ただひとつ確かなのは、私にはその「自然な振る舞い」ができないということだ。
だからこそ、彼らが私に声をかけようとしても、私が緊張でぎこちない反応をしてしまうと、彼らもきっと戸惑うだろう。自分から壁を作ってしまっていることに気づきつつも、その壁をどう壊せばいいのかわからないのだ。
特に思い出すのは、以前学校であったグループ活動のときのことだ。活動のチームが決まったとき、私は一瞬「今度こそ、皆と仲良くなれるかもしれない」と希望を持った。けれど、いざ話し合いが始まると、やはり私は何も言えずにただ黙っているだけだった。他のメンバーは積極的に意見を出し合っていて、話が弾んでいたのに、私はついていけなかった。
何か意見を言おうと思っても、どこかで「もし間違ったことを言ったらどうしよう」「皆に笑われたらどうしよう」という不安が先に立ってしまう。そして、結局一度も口を開けないまま、その活動が終わってしまったのだ。
そのときも、家に帰ってから何度も自分を責めた。「どうしてあのとき、もっと頑張らなかったんだろう」「せっかく仲良くなるチャンスだったのに」と後悔するばかりだった。それに、他のメンバーが「なんであいつは何も言わなかったんだろう」と思っていたかもしれないと思うと、なおさら自分が情けなく感じられた。
自分の無力さやぎこちなさのせいで、周りの人たちにとっても居心地の悪い空間を作ってしまったのかもしれない。もし私がもっと積極的にコミュニケーションをとれる人間であったなら、皆が気まずくならずに済んだはずだ。
日常の中でこうした小さな出来事が積み重なっていくたびに、「自分には何か大事な部分が欠けているのかもしれない」という思いが強くなっていく。何かが欠けているから、周りの人たちとうまくいかないし、友達もできないのではないかと思ってしまうのだ。
そして、そうした思いが強くなるほど、ますます自分に自信が持てなくなるし、他の人たちと関わることに対して余計な緊張や不安を感じるようになる。この負のループから抜け出したいと願っているのに、どうすればいいのかがわからない。
時々、ふとした瞬間に、「本当は、自分でもどうにかできることなんじゃないか」と思うこともある。例えば、クラスの中でちょっとした挨拶をしてみたり、些細な話題でもいいから話しかけてみたりすれば、少しずつでも変わっていけるかもしれない。
そうやって少しずつ、相手との距離を縮めていくことが大事なのかもしれないと思うのだ。けれど、いざその場になるとまた怖くなってしまう。そして、またひとりでいる自分を恥じたり、他人との違いを痛感してしまったりするのだ。
こんな風にいつも堂々巡りをしている自分に対して、周りの人たちはどう感じているのだろうか?きっと、「あの人は無口で暗い」と思われているのだろう。そう思うと、さらに自分が情けなくなる。周りの人たちが、私が壁を作っていることに気づいているなら、きっとあまり関わろうとはしないだろう。
それどころか、「なんだか話しかけづらい人だ」と感じているかもしれない。それがもし本当なら、すべては私のコミュニケーション能力の低さが招いた結果だ。
物語の中の主人公は、次第に周囲の人々と打ち解けていき、信頼される存在になっていった。彼の成長を見ていると、自分もそうなりたいと思うけれど、現実の私はあの主人公のように勇気を持つことができない。
そして、ますます自分が「何もできない人間」だと思えてきて、どうしようもない無力感に襲われる。それが、どんなに虚しいことなのか、誰も理解してくれないのだろう。
・第三節
私は、どうしたらこの状況から抜け出せるのだろうかと自問することがある。日々の中で何度も、自分がもっと違う性格なら、周りに馴染むことができていたのではないかと思う。
もし、もっと明るく、何事にも動じない性格であったなら、今のように孤独や疎外感を抱えずに済んだかもしれない。だが、そんな性格になるためには、何をどう変えればいいのかがまるでわからない。
変わりたいと思うのに、実際には、そう簡単には変われないのだ。頭では「もっと積極的になれ」「自分をもっと出していけ」とわかっていても、それができない自分がいる。何かを始めようとすると、心の奥から不安が湧き上がり、まるで自分を押しとどめるかのように心が冷たく固まってしまう。
その冷たさは、私が変わることを拒んでいるかのようだ。まるで自分が、自分自身の敵となっているような感覚だ。
私は、どうしても心の奥にある恐れを捨てきれない。人と接するたびに、「相手にどう思われるだろうか」「嫌われたらどうしよう」という不安がよぎる。それが自分の行動を制限し、言葉を失わせる。
そして、そうした不安を抱えながら変わろうとすること自体が、どこか不自然に思えるのだ。だから、結局また元の自分に戻ってしまう。たとえどれだけ変わりたいと願っても、何かが心の中で変化する兆しが見えた瞬間、恐れがその芽を潰してしまうのだ。
もしかすると、私はこのまま変わることができないのかもしれない。この暗い感情や不安な気持ちと共に生きていかなければならないのかと思うと、どうしようもない絶望に襲われる。そして、その絶望を抱えながら、果たして本当に変わることができるのだろうかと、私は自分に問いかけてしまう。
《《本当に変わることができるのだろうか?》》
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